好きだけど? 好きだから?

「稔くんのバカぁっ。もう知らないですぅっ。」
 言いたくないなら好きにするですっ、勝手にするですぅっ。何も言わずにふくれてるなんて、子どもみたいなのです。
 でもやっぱり、「バカ」なんて言い過ぎたかも知れません。とっても後悔しながら駅までの道を急ぐ私、園部実凜(そのべ みのり)は、喧嘩しちゃったけど可愛い可愛い厚川稔(あつかわ みのる)くんの彼女なのです。私が大学二年生、稔くんは高校一年生。わかっています、私がお姉さんなのですから、もっと優しくわかってあげなくちゃって思ったりもします。
 でも、でもね、お姉さんと言ってもたった四歳しか違わないんです、私にわかることなんてほんの少しなんです。いつもだったら何でも話してくれるのに、今日に限って黙り不機嫌じゃ何もわからないんです。

 喧嘩の原因そのものは、ハッキリしています。と思うです。私が「今日からアルバイトなのです」って話をしてから機嫌が悪いのですから、それが原因ですよね。でも、どうして不機嫌になったのか、わからないのです。
 確かに私のバイト先は、ちょっと特殊。普通の人だったら白い目で見るかも知れません。不機嫌どころか避けられちゃうかも知れません。でも稔くんは私がそういうのを好きだって知ってるし、稔くんだってそういう私が好きだって言ってくれます。なのに今日に限って何が不満だったのですか? もう全然わかりません。


 本当は今頃、自然と笑顔のはずだったのに。
 バイト先のある駅を降りると、仕方なく無理矢理笑顔を作りました。ふみゅぅ、あんまり可愛くない気がします。嘘は苦手です。びっくりさせようかなって隠し事してもすぐバレちゃって、いつも「実凜さんは嘘が苦手だね」って稔くんに言われます。きっと今の顔も、嘘だってわかっちゃうのでしょうね。
 それでもしょんぼりした顔じゃお仕事なんかできませんっ。作り笑顔に精一杯の明るさを詰めて、私はお店の扉を開きました。

「今日から新たに加わる園部実凜さんです。主に平日夜のシフトに入ってもらいます。じゃあ、園部さん、まずは自己紹介して。」
「初めまして、園部実凜です。不慣れでいろいろとご迷惑をおかけすると思いますが、がんばりますのでよろしくお願いいたします。」
「ぅぁ、胸でかっ、ウエスト細っ。」
「あんた、初対面でそれは失礼でしょ。ごめんなさいね、園部さん。結花はいつもこんなで。私は崎原律子、お店ではそのまま『律子』って名札を着けています。一応園部さん、えーっと、実凜さんでいいのかな?」
「はい、実凜でかまいません。」
「それでは、実凜さん。私が実凜さんの教育係を務めさせていただきます。一通りは私から説明するけど、わからないことがあったらいつでも聞いてくださいね。」
「はいっ、わかりました。よろしくお願いします。」
「律子さんは相変わらず堅いですね。店長の私が言うのも何ですが、大して難しい仕事じゃありません。怪我と衛生管理に気をつけて、楽しく仕事してくださいね。」
「はいっ。」
「それではみなさんも自己紹介して。ぇーっと、結花さんから順番にね。」

 ぇとぇと、背の高い優しそうな人が律子さんで、ちっちゃくて気さくな人が結花さんで、眼鏡をかけた物腰柔らかなのは奈緒さん、見た目もちょっとボーイッシュなのが早苗さん。厨房担当は由美子さん。よぅし、覚えたぞっ。
「はい、というわけで今日はちょっと多いんだけど、平日昼間はだいたい三、四名でやることが多いかな。お客さん来ないから慣れるにはいいチャンスだと思うので、がんばってくださいね。」
「はいっ、がんばりますっ。」
「期待してますよ。じゃ、あとは律子さんよろしく。私は算盤はじかないとならないんで、部屋に籠もってるから。」
「わかりました。実凜さん、まずは、着替えましょうか。」
「はいっ。」
 着替えると言っても専用の更衣室はありません。店長さんが算盤をはじくために入った事務室の一角にハンガーラックが二台置いてあって、紺色と基調とした制服がずらりと並んでいます。
 律子さんが手をかけた一着は、ビニールがかかっていてクリーニング上がりみたいです。これが私の制服なのでしょうか。ぅぁ〜、憧れの制服ですよぅ。
「これが実凜さんのね。んー、ホントにウエスト細いのねぇ。あわなかったらごめん、ベルトで締めてもらえるかな。」
 その科白と同時に、私に視線が集まります。ちょっと恥ずかしいです。スタイル抜群なんてことはないんですが、たまに褒めてくれる人がいるのです。でもやっぱり、褒められると嬉しいのです。
「ひゃんっ。」
 突然、突然ですっ。そろぉりと腰に手を這っていますぅ。結花さん、びっくりするですよぉ。
「こら結花、何やってんのよ。」
「いやぁ、だって、ちびのあたしより細いよ? こんなのずるくない? てか実凜ちゃんのウエストいくつよ?」
「五十五センチですけど……。」
 と答えると嫌らしい手つきが上の方へと移動してきます。ぁっ、ちょ、ちょとぉ。
「はわっ、やめてくださいよぅっ。」
「あんですとぉっ、それでこの胸か。許し難いな。うりゃうりゃ。」
「こらやめろ結花。」
「結花さん、それはさすがに……。」
「だってだってぇ、あたしなんか未だに中学生にも負けちゃうのにぃ、実凜ちゃんいくつなのぉ?」
「黙れ結花、何を言ってもおまえはもう育たん。ごめんね、実凜さん。さ、早く着替えちゃって。」

 ついに、ついに着替え終わって、姿見の前に立ちました。
 落ち着いた紺色のワンピース、真っ白なエプロン。背面からぴょこんと出ている大きなリボンに、フリルの付いたカチューシャ。
 こんな感じのお洋服は何度か着たことがあります。でも。でもでもっ。
 事務室を出ると、キッチンがあります、テーブルの並んだフロアがあります。改めて、このお仕事に就いたんだなって思うのです。
「ぇっと、ここに応募してくるぐらいだからわかってるとは思うけど。来店を迎える挨拶は『お帰りなさいませ、ご主人様』、退店時は『行ってらっしゃいませ、ご主人様』ね。あとはまぁ、注文を間違いなく取りさえすれば大丈夫だから、適当にやってみて。」
「はいっ、わかりました。がんばりますっ。」
「うん、それだけ元気なら大丈夫かな。お客様から対価をいただいてサービスしていることさえ忘れなければ、失敗しても何とかなりますから。」
 そして、私の初めての一日が始まったのです。
 今日は私が入ったからだと思うのですが、メイドさんの数が多いです。でもやっぱり平日昼間のお客さんなんてたくさんは来ません。
 だから落ち着いてゆっくりやればいいんですけど、どうしても何か失敗しちゃうのです。
「ぁ、実凜ちゃんっ、お冷やには氷入れなくちゃ。」
「注文はゆっくりでいいけど、伝票に書くメニュー名は適当な略称でいいからね。」
「はわぁっ、っと、は、もう少しで転んでしまうところでした……。」
「すみません、フォークいただけませんか……?」
 はぅ〜、ダメダメです。なんだかとにかく失敗ばかりですぅ。私って何もできないダメな女の子だったのでしょうか。とってもしょんぼりです。
 でもがんばるのです。気を取り直して、私は今、律子さんにレジ打ちの仕方を教えてもらっています。
「そうそう、簡単でしょ? バーコードじゃないとは言え、コンビニと違って値段入れるだけ。レジが遅かったら遅かったでお客さんが喜んでくれるのがこの手のお店のいいところ、ゆっくりやりましょ。」
「はいっ、わかりました。」
 と、そこにお客さんです。
 レジは入り口の目の前。絶好の挨拶ポイントなのです。
「いらっしゃいませ、ご主人様っ。」
「お帰りなさいませ。」
「お帰りなさいませー。」
「お帰りぃ〜。」
 ぁ、ぁぅ、はぅっ、間違えたぁ。って、ぇーっ、稔くんじゃないですかぁっ。どうしてこんなところに来るのですか。あんなに嫌そうだったのに……。
「ぁー、別にいいのよ、『いらっしゃいませ』でも。そんなに慌てないで。それじゃあ、お冷や出しに行ってみようか。」
 律子さん優しいです。挨拶を間違えて慌ててると心配してくれたのですね。でも、それもあるんですけど、私が慌てているのはあのお客さんが稔くんだからなのですよぅ。
「がんばれー。新人なんだから失敗しても気にするなーっ。」
「でも、さっきから見てると、結花さんより実凜さんの方がよほどメイドさんらしいですよ? はい、これを三卓さんに持って行ってください。」
「はい、ありがとうございます。」
 みなさんお優しいのです。私はお冷やとおしぼりの載ったお盆を受け取り、ゆっくりなのか急いでいるのか楽しみなのか嫌々なのかもう全然わからないまま、稔くんの前に立っています。
「お帰りなさいませ……。」
「……。」
「…………。」
「…………。」
 沈黙。沈黙です。ぁ、そう、私はメイドさんなんですから、ちゃんとお仕事しなくてはです。
「ぁ、あの、お冷やとおしぼりです、どうぞ。」
「ぁ、ありがと……。」
「そ、そのぉ、稔くん、どうしてここに来たですかぁ?」
「だ、だって、実凜さんが今日からお仕事って言ってたから、その、気になって……。」
「でもでも、怒ってたですよね?」
「ぇ、ぅ、ぁ、ん、まぁ、あれはその、なんと言うか……。」
「あのあの、もう怒ってないですか?」
「ぅ、うん、別に、怒ってないよ……。」
「ホント? ホントですか?」
「うん、ホント、怒ってないよ。」
「はぅ〜、よかったですぅ。じゃあ、注文決まったら呼んでくださいねぇ〜。」
 内緒ですけど、稔くんも嘘をつくのが下手なんです。いつも見抜いちゃう私だけど、知らない振りをしてあげるんですよ。だから稔くんの「怒ってないよ」が嘘じゃないってわかります。
 なんだか仲直りできちゃいましたっ。よかったぁ。とっても嬉しいです。にこにこです。ついつい足取りも軽くなっちゃいます。勢い余ってカウンターにつっこみそうになっちゃったくらいです。

「ケーキセット、紅茶とミルフィーユでお願いしまぁす。」
「了解。ぁ、お帰りなさいませー、ご主人様。実凜さん、案内して注文よろしく。」
「はいっ、わかりましたっ。」
 初めてのお仕事でちょっと不安な今日でしたが、もう何でもできそうです。やっぱり私は、稔くんの彼女なのですよ。
「いらっしゃいませっ。はいっ、お冷やとおしぼりどうぞ。ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください。」
「ぉ、新人さん?」
「はいっ、今日から入りました園部実凜と申します。」
「フルネーム、言っちゃっていいんだっけ……?」
「ぁ、す、すみません。失礼いたしました。」
「いや、まぁ、本人がよければ問題ないよね。がんばってくださいね。」
「はいっ、がんばりまぁすっ。」
 うん、うん、やっぱりなんか全然違う。ちょっと失敗しちゃったけど、次からは気をつけます。もう絶対大丈夫なのです。
「三卓さんにケーキセットお持ちしてー。」
「はぁい。」
 ふふっ、稔くんにケーキを持って行ってあげるのですぅ。るる〜ん。
 小さなお店、たった数歩で辿り着けるテーブル。いくら嘘が下手な私でも、綻びる前に歩き切れちゃう距離です。でもやっぱり、違うんです。今なら絶対転びません、それに思った通り、とっても楽しいのです。
「お待たせしましたっ、ケーキセットなのですよ、稔くん。」
「ぁ、ありがと。……お店で『稔くん』はまずいよ……。」
「いいんです。稔くんは特別ですから。だから嬉しいです。稔くんにメイド服姿を見て欲しかったのですから。ねぇ、どうですか? 似合いますか?」
 一歩下がってくるりと一回り。
 メイドさんだけどちょっとお姫様みたいで、可愛いですよね?
「ぅ、うん、よく似合ってる。だから、ね、早くお仕事に戻って。」
「はぁい、わかったですよぉ。ゆっくりしていってくださいね、ご主人様ぁっ。」
 「ご主人様」って言われて顔を赤らめる稔くんは本当に可愛いです。私が負けそうなぐらいです。ぁ、そうだ、嬉しくてつい忘れていましたが。踵を返して謝っちゃいます。
「稔くん、ごめんなさい。よくわからないけど、怒らせちゃってごめんなさい。今からまた、仲良しに戻るですよっ。」
「ぁ、うん、僕こそごめんね。」
 稔くんと私は、にこっと微笑みあいます。稔くんはちょっと恥ずかしそうで、私はとっても嬉しいです。
 稔くんとはかれこれ十年以上一緒にいます。恋人同士になってからも二年が経ちました。だからいくら仲良しの私たちでも、たくさん喧嘩しました。だから、たくさん仲直りして、そのときはいつも同じ。稔くんは恥ずかしそうで、それを見て私はとっても嬉しいのです。

 お店は夕方になって、ちょこちょことお客さんが増えてきました。
 私もお冷やを出したり注文を取ったりと本格的にお仕事です。もちろん、その合間に稔くんをちらりと見ちゃうことも忘れません。そしてそのたびに目が合っちゃう私たちなのです。
 だから、気づいちゃいました。昨日、稔くんが不機嫌だった理由。ぅ〜、そういうことだったのですね。素直に言ってくれれば、喧嘩なんかしないで済みましたのにぃ。
 しばらくして、やっぱり落ち着かない様子で席を立つ稔くんが目に入りました。よぅし、チャンスですっ。
「はーい、私がレジやりまぁす。」
 レジに向かおうとしていた奈緒さんに右手を挙げ「やりまぁす」って伝えて早足です。そしてレジ越しに向かい合うのは稔くんなのですよ。
「九百円になります。」
「はい、じゃ、千円で。」
「千円お預かりいたします。……はい、百円のお釣り、と。」
 お釣りを受け取ろうと差し出された稔くんの手を、ひょいと引っ張って。
 私はちょこっと身を乗り出して。
――ちゅっ。
 私の方が背が高いので、おでこで我慢なのです。本当は唇にちゅってしてあげたかったのですけど、お仕事中でもありますからね。
「心配しないでください。私のご主人様は、稔くんだけなのです。」
 稔くんは照れ屋さんですから、こう言ったら無言で逃げちゃうと思います。
 ほぅら、出て行っちゃいました。
「行ってらっしゃいませ、ご主人様。」
 ちゃんと「ありがとう」って言わなくちゃダメですよ? ご主人様っ。帰ったらお仕置きなのです。

あとがきに続く。

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